(引用)

収束の気配を見せない新型コロナウイルス。
劇団四季も大打撃を被り、令和2年2月末から7月はすべての公演を中止し、4月の緊急事態宣言発出以降は稽古すらもできなかった。
未曽有の危機の中で、代表取締役社長の吉田智誉樹さんはどのような「決断」を下したのか。
「しぶとい芸術」と語る演劇界の中で、劇団四季の新たな挑戦が始まった。
今は耐えてほしい
令和2年4月、初めての緊急事態宣言が出された。吉田さんは俳優たちにこんな言葉をかけた。
「必ず元に戻る日がくる。その日のために今は耐えてほしい」
技術や経営スタッフは在宅でも仕事はできるが、俳優たちは家でコンディションを保つための自己鍛錬をするしかなかった。
「彼らの『心』が心配でした。なんとしても守ってやらなければいけない。そのためにはまず、俳優たちの生活を保障してあげることでした」
吉田さんは決断する。通常、俳優たちの報酬は出演数に比例し、出演がなければ報酬はない。今回は公演がない期間も一定の報酬を全員に支払ったのだ。一方で劇団経営の「存亡ライン」についても、シミュレーションを開始していた。
公演がこのまま長期にわたって中止が続いたり、再開できたとしても客席数に大幅な制限がかかったりした場合、劇団はどれくらいの期間、存続できるのか。
「2年は持ちこたえられる-という結論でした。その2年間で状況の変化を待ち、生き残りの策を練るしかない。サッカーに例えれば、長いディフェンスの時間が続きますが、絶対にゴールは割らせないという心境でした」
演劇の形とは
コロナ禍で改めて「演劇とは何か」を考えた。世間では「ウィズコロナ」が叫ばれ、「ニューノーマル(新しい日常)でなければ生き残れない」とも言われている。だが、吉田さんにはニューノーマルな演劇の形がどうしても思い描けなかった。

「配信などの映像を使った演劇は、ニューノーマルの一つの形なのかもしれません。しかし、演劇の魅力はお客さまの目の前で演じる『同時性』と、二度と同じ舞台を再現することはできないという『一回性』にあります。劇場という1つの場所に集まり、同じ空気を感じ、人間が人間の目の前で演じる。これでしか演劇は存在しないんです」
そう吉田さんが気づいたのは、デジタルアート集団として注目を集めていた「チームラボ」代表、猪子寿之(いのことしゆき)さんのインタビュー記事にあった一文がきっかけだった。
<アフターコロナのようなものはない。これまで起こっていないことは、いずれ元に戻る>
「この言葉が非常に腑(ふ)に落ちました。これまで、配信のような方法が演劇そのものを代替してきた歴史はないし、演劇は観客の前で演じるというアナログな形の中でのみ輝く。古代ギリシャの時代からずっと同じ形で残っている、実は〝しぶとい芸術〟だったのです」
暗闇にいた吉田さんに光が差した瞬間だった。
浅利慶太氏に抱いた「恐れ」
新型コロナウイルス禍で公演や稽古ができない未曾有の危機を前に、劇団四季社長の吉田智誉樹さんの心の中には常に劇団創立者、浅利慶太氏の言葉があった。

浅利氏と吉田さん。親子ほども年齢の違う2人の関係はどことなく面白い。
平成7年、吉田さんが大阪の広報を担当していたときのこと。仕事で浅利氏にこっぴどく怒られ、そのことですべてに消極的になっていた。ある日、浅利氏から「メシでも食いにいくか」と誘われた。大阪・上六(上本町六丁目)にある「近鉄劇場」そばの小さな居酒屋。そこでこんなことを言われた。
<お前は人としての俺を恐れてびくびくしている。それが自分の仕事を小さくしている。俺はこの劇団における「浅利慶太」という一つの〝機能〟なんだ。時にお前の仕事に対して厳しく対応するかもしれないが、それは浅利慶太個人の行為ではなく、劇団という組織が俺に求め、お前に求めていること。だがら体当たりで向かってこい>
吉田さんには「恐れる理由」があった。神奈川県立横浜緑ケ丘高校2年だったときのこと。学校貸し切りの「芸術鑑賞会」で劇団四季の公演『アプローズ』(主演・前田美波里、日生劇場)を見た。当時、演劇部の部長だった吉田さんは花束を持って主演俳優の楽屋を訪ねた。
「今日はありがとうございました」と頭を下げたとき、背後に背の高い男の気配。振り返ると浅利氏がいた。慌ててあいさつすると-。
「私はまるで眼中にないかのようにそのまま隣の部屋に入っていき、すぐに怒鳴り声が聞こえてきた。演技の何かが気に入らなかったんでしょうね。衝撃でした。プロの厳しさや演劇がこうして作られているんだと同時に学びましたよ」
これが吉田さんと浅利氏の出会い。
「ずっと恐れがあったんでしょうね。でも以来、必要なときに必要なことを浅利に話せるようになりました」
すし屋での会話
平成25年、吉田さんは「お前を次の社長にする」と浅利氏から告げられた。銀座のすし屋だった。
「無理です、と断りました。営業や広報は担当しましたが、演劇を作るという仕事は何も知らないと」。
だが、浅利氏は許さなかった。ついには怒りだし「(浅利氏と吉田さんが通った)慶大ではな、先輩の言うことに後輩は『はい』としか言っちゃいけないんだ!」。仕方なく吉田さんは「はい」と言って、社長就任を受けた。
平成30年7月13日、浅利慶太氏は85歳で亡くなったが、すし屋で教えられたことを忘れない。
「あの日、浅利はいろんな話をしてくれました。一番印象に残っているのは『俳優を大切にしろ。この劇団の唯一無二の財産をしっかり守れ。それが社長の仕事だ』。コロナ禍でも浅利の言葉が常に心にあります」
浅利の思いを継ぐ
吉田さんには、劇団創設者の故・浅利慶太氏の忘れられない言葉がある。それは劇団四季オリジナルの作品を作るという思いだ。
<海外の作品を日本で上演するだけじゃ駄目なんだよ。権利を自分たちでコントロールできるコンテンツを持たなくてはいけない>
吉田さんが入社以来ずっと聞かされた言葉だった。
1970年代から90年代にかけ、四季は積極的にオリジナル作品を手掛けた。代表作は『ユタと不思議な仲間たち』や「昭和の歴史3部作」といわれるミュージカル『異国の丘』『李香蘭』『南十字星』。ファミリーミュージカルも数多く作った。ところが、90年代後半から2000年代に入ると「専用劇場」の建設に注力するようになる。オリジナル作品は新作ではなく再演が多くなった。
1カ月ほどで劇団が交代で使用する当時の日本の貸館システムでは、たとえヒット作に恵まれてもロングラン興行ができない。莫大(ばくだい)な初期投資が必要になる大型作品は、実現が難しい状況にあった。
自分たちの「家」があれば、ロングラン興行ができる。たくさんの客に四季の舞台を届けられる。長く公演することで大きな収益を得られれば、舞台装置や衣装にも資金を投じられ、より上質の作品を生むことができる。浅利氏たちは「家づくり」に邁進(まいしん)した。
四季は今、東京に「春」「秋」「海」「有明四季劇場」「自由劇場」の5カ所に加え、大阪と名古屋の計7カ所の専用劇場を持つまでになった。
「止まっていたオリジナルの新作を創作する仕事を少しずつ元に戻そう。浅利の思いを継がなければ…と思ったんです」
結実した思い
思いが結実したのが、16年ぶりに作られた一般オリジナルミュージカルで、関西では2月23日から京都劇場で上演される『ロボット・イン・ザ・ガーデン』(原作=デボラ・インストール。脚本・作詞=長田育恵、演出=小山ゆうな)だ。

「理想は四季のオリジナル作品と海外作品の上演割合を半分にしたい。両輪にしたいんです」
そのためには、ディズニー作品の人気に匹敵するものを作らなければいけない。吉田社長は今回の『ロボット・イン・ザ・ガーデン』を「非常に高い水準に仕上がった」という。
「この物語の素晴らしさはせりふの美しさです。等身大のごく普通の人たちの日常の何げない会話の中に、脚本家の長田さんが詩情を込め、それを小山さんが丁寧にすくいあげ、俳優の外側ではなく、胸の内側で磨いている。生きる喜びを感じていただけると思います」
吉田さんが目指すのは劇団誕生時の精神だ。昭和28年7月14日、10人の学生たちで旗揚げした劇団は、「季節ごとにお客さまへ新鮮な舞台をお届けできるような劇団に」という演出家の芥川比呂志氏から「四季」という名をもらった。

「魅力あるコンテンツを作り続けられる集団でありたい」(吉田さん)。「創作」という扉を再び開けた劇団四季は挑み続ける。