2020年に新型コロナウイルスで世界最悪の感染地域となり、娯楽や飲食店、文化施設から人の影が消えた米ニューヨーク。ワクチン接種が進み、スポーツ観戦や飲食店などが再開し街が活気を取り戻す中で、まだ本格的に再開されていないニューヨークの代名詞がある。世界有数のオペラハウス、メトロポリタン歌劇場(MET)とブロードウェーのミュージカルだ。ともに9月の再開を予定する。前例のない休止に直面し、変異ウイルスの感染拡大が懸念されるなか、音楽家や劇場関係者は再開への険しい道を手探りで歩む。

人件費の削減を目指すメトロポリタン歌劇場の運営側に5月、
楽団員らがノーを突きつけた(ニューヨーク)
「我々がMETをつくっているのだ」。5月中旬、ニューヨーク中心部マンハッタンのメトロポリタン歌劇場前の道路に約800人が集まり、気勢を上げた。オペラの楽団員、舞台装置の担当者、チケットの販売員など職種は様々だが、みな失業状態にある。35年間舞台装置に携わってきたジョン・ディーンさんは「まだまだ働きたい。雇用契約を早く戻してほしい」と訴えた。
METは例年、秋から翌年春にかけて上演する。20年3月にはコロナの急拡大で公演を中止し、秋からの新シーズンもキャンセルした。METの総裁ピーター・ゲルブ氏は6月、オンライン講演で「とても難しく、試練の1年だった。METを生き残らせ、再開させるのが私の目標だ」と語った。
3割の給与カット提案に団員は猛反発
138年の歴史を持ち、世界の著名音楽家や音楽ファンをひき付けてきた
メトロポリタン歌劇場

METと雇用契約を結ぶ団員らは20年4月からほぼ全員が無給休暇となった。METは非営利法人としてチケット収入のほか、寄付金などで運営している。通常は年間3億ドル(約330億円)の予算を組むが、コロナ下で収入が半減したとして、費用の3分の2を占める人件費の削減を進めようとした。2500人が所属する複数の労働組合に額面で3割の給与カットを提案。長年の財政難の問題に取り組む狙いも透ける。
だがコロナのパンデミック(世界的大流行)下で人前での演奏機会も失われ、生活を切り詰めてきた団員は猛反発。交渉は難航した。彼らの目には、ライブ配信や少人数の演奏再開などで団員支援に動く米国の他の楽団と比べ、経営陣の努力が足りないようにも映った。7月には一部の組合がMETと暫定合意に達したが、男性のトロンボーン奏者は「音楽の話もできずお金の話ばかりだ」と唇をかむ。関係者によると、これまでに団員の1割が退職した。失業保険では家賃が払えない団員もおり、4割は地元に戻ったり、他の楽団に転職したりしてニューヨークを離れた。
既に9月以降の公演のチケットは販売が始まっており、多くの団員は戻るとみられるが再開は綱渡りだ。足りなければ臨時で加わってもらう「エキストラ」に頼らざるをえない。人手の確保が間に合わなかったとみられ、10月の一部のプログラムはキャンセルされた。そうした中、団員らは生活費を必要とする仲間のために自ら寄付を募ったり、公演再開に先駆けて個人的に演奏機会を模索したりする動きも出ている。
「幕を上げるときが来た」
「また多くの人の前で演奏できることを心からうれしく思う」。METの日本人ハープ奏者、安楽真理子さんは6月、マンハッタンの商業ビル「ハドソンヤード」の最上階で、演奏した10人ほどの仲間とともに顔をほころばせた。ニューヨークの財界関係者など100人超を集めた室内楽の演奏会。多くの団員にとっては1年3カ月ぶりの公の場での演奏だった。演奏者は演奏前に検査を受け、客はワクチン接種証明を見せて演奏を楽しんだ。
ブロードウェーも1年超の休止期間を経て再開の準備を急いでいる(7月)

オペラには日本人のファンも多いことから三井不動産の現地法人やNYの親睦団体「日本クラブ」のほか、米国の不動産会社リレーテッド・カンパニーズなどが中心となり、資金を出したり演奏会の場所を提供したりして演奏の場を設け始めた。オペラ歌手も出演している。動画サイト「ユーチューブ」でも様子を発信。個人の寄付も含めた草の根的な支援の輪が広がりつつあり、オペラの公演再開を待つ団員が音楽を続けていく原動力にもなっている。
「幕を上げるときが来た」。ニューヨーク市のデブラシオ市長は3月にこう述べ、ブロードウェーの再開に期待を込めた。劇場関係者がワクチンを接種しやすいように、接種会場を設けるなど体制を整えてきた。ブロードウェーはコロナ前にミュージカルで年間14億ドルの興行収入があったニューヨークの娯楽産業のけん引役だ。その再開はニューヨークの復活を示す上で象徴的な出来事となる。
観客を取り合う可能性も
ニューヨーク州のクオモ知事も1月の施政方針演説で「社会、文化、創造の相乗効果が生じない都市はどうなるだろう。ブロードウェーのないニューヨークはニューヨークではない」と述べ、文化的な興行を再開する重要性を強調した。
METのような労働問題は表だって起きていないが、運営者からは先行きを不安視する声も上がる。ニューヨーク市の雇用状況をみると、劇場やスポーツ施設関連の雇用者数は6月時点でコロナ前の20年1月比で41%減と、全体(11%減)と比べ回復の鈍さが目立つ。「長期間の失業を機に起業したり、資格を取る勉強をしたりして音楽の世界を離れた同僚も多い」(関係者)

「ただ照明をつければいいという話ではない。すべてが不透明で見通せず、初めからやり直すようなものだ」。オフ・ブロードウェーの小劇場を運営するMCCシアターの芸術監督、バーニー・テルセイ氏はこう話す。ブロードウェーなどで5つの劇場を運営する非営利団体ラウンドアバウト・シアター・カンパニーの芸術監督、トッド・ハイメス氏も「最初は少ない観客を多くの劇場が取り合うことになるだろう」と厳しい見方を示す。
ジャズクラブ「ブルーノート」は6月に通常営業に戻り、世界の著名な音楽家が演奏に訪れるカーネギーホールは10月に再開する。ブロードウェーの興行主代表のブロードウェーリーグは7月30日、観客にワクチン接種証明とマスク着用を求めることを決めた。秋にかけて相次ぎ戻ってくるニューヨークの音楽。再開を待ちわびる聴衆の期待に応えようと、水面下で必死の努力が続く。