あの無謀な戦いとは何だったのか。天皇であっても止めることはできなかったのか。
昭和の戦争と平和を再考する上で、貴重な一次史料が見つかった。初代宮内庁長官だった田島道治が書き残した昭和天皇との詳細な会話記録である。
「拝謁(はいえつ)記」と題された1949年から53年までの手帳やノート計18冊だ。新憲法で「象徴」となった天皇による戦争の総括と、それを基に国民に発しようとした「お言葉」を巡る生々しいやりとりがつづられている。
特筆すべき第一は、太平洋戦争の「起点」と「終点」に関する認識である。
拝謁記によれば天皇は、軍部暴走による張作霖爆殺事件(28年)の処罰をあいまいにしたことが「今日の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」と断じた。
その上で「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止める事が出来なかつたか」と語りつつ、軍部による「下剋上(げこくじょう)」のような勢いに流されたことを告白している。
第二は、自らの戦争責任への言及である。
52年のサンフランシスコ平和条約発効に伴う独立回復式典での声明を巡り、「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」などと繰り返していた。退位論につながることを懸念した吉田茂首相らが反対し、深い悔恨の念を表現した一節は削除された。
昭和天皇は戦後30年がたった75年、記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、よく分かりません」と答えた経緯がある。
先の大戦に対する責任の自覚と、それを公に口にすれば国政上の権限がない象徴の規定に反するという葛藤が、一連の流れからうかがえる。再軍備のための改憲論もいさめられた。
戦前戦中の元帥から象徴に変わりゆく昭和史の重大な断面が示されている。
上皇さまは、これと同じ内容の話を昭和天皇から聞かれていたという。日本の主権回復を記念する式典声明には反省という文字が不可欠だったという認識を踏まえ、象徴天皇はどうあるべきか、平成の30年にわたり模索された。それが戦争や災害の被災者に寄り添い続ける天皇像の礎となったとも言えよう。
拝謁記が描くのは、最側近の目を通じた天皇像であり、個人のメモである点も踏まえた今後の検証が待たれる。読み方はさまざまあろう。とはいえ、戦争責任や改憲を巡る政治の論議で、自説正当化のために都合よく引用することは慎むべきだ。
大事なのは昭和、平成を経た今、未来に向けて平和を希求するために、何を教訓として読み取るかである。