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紫電改「体当たり」の真相 B29と壮絶な空中戦、少年航空兵の最期
西日本新聞 - 2019/8/13 7:30 (2019/8/13 8:06 更新)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/534088/
昨年から大分県竹田市の山中で、ガラスや鉄の破片が相次いで発見されている。その数、約60点。太平洋戦争末期に旧日本軍が投入した戦闘機「紫電改」の残骸とみられる。戦況打開への一筋の光として、日本に続々と襲来する米軍機に立ち向かった当時の新鋭機。発見現場の上空では今から74年前、紫電改に乗った19歳の少年航空兵、粕谷欣三さんが米軍のB29爆撃機に体当たりをしたという逸話が残っており、今回発見されたのはその機体の一部の可能性が高い。粕谷さんの紫電改は当時、どんな戦いを繰り広げたのか。逸話の基となったとみられる目撃者の証言に加え、日米双方の関係資料を探ってみると、伝承とは異なる戦争の実相が浮かび上がってきた。
【関連】「史実残す」胸に紫電改検証 大分で残骸展示、兵庫で原寸模型 戦後74年「遠い過去にさせない」
1945年5月5日。その日の竹田市上空は晴れ渡っていた。
撃墜されたB29の機長だったワトキンズ氏(捕虜になった後、帰国)の証言によると、午前8時ごろ、福岡県の飛行場を爆撃。帰路に就こうとしていた頃、エンジンが被弾したという。攻撃したのは紫電改だった。
旧日本海軍の資料では、紫電改は午前7時26分、長崎県の大村航空基地を飛び立っていた。同8時5分、紫電改は大分と福岡県の久留米間の上空、高度6000メートル付近で10機のB29をとらえると、直ちに攻撃に移った。
B29は各機に10人ほどの乗組員が搭乗し、近づく敵機に機銃を浴びせる「空の要塞」。八方から弾を飛ばす様は、旧日本軍パイロットの目に「ハリネズミ」のように映ったという。全長は30メートルで、1人乗りの紫電改の3倍以上の大きさ。エースとうたわれたパイロットでも、次々と機銃を撃ち込んでも火を吹かない巨体にてこずった。
強固な火力と防御力に対抗するため、紫電改に乗り込んだ旧日本海軍の「343航空隊」が採用したのが、「垂直背面攻撃」だった。上空で機体の上下を反転させると、ほぼ垂直に突進し、擦れ違いざまにB29の鼻先にあるコクピットやエンジンに機銃をたたき込む―。高度な飛行技術と精神力が必要な命懸けの戦法だった。
粕谷さんも343航空隊の一員だった。4機で編隊を組んで飛び、2機ずつに分かれて攻撃をしていた紫電改。この日も2機1組で垂直背面攻撃を敢行した。爆撃を終えて帰投する米軍機を奇襲するのが当時の戦略であり、この日の最初の機銃は気付かれぬうちに撃ち込んだとみられる。
機体が空中分解を起こし、そのまま山中に墜落
敵機に接触するほどのすれすれを通り過ぎながら、機銃を放った紫電改。被弾したB29は、エンジンが炎上した。
最初の攻撃を終え、垂直方向に降下していた粕谷さんは、操縦桿を握りしめて機体を引き起こすと、今度は下側からB29を追撃した。が、再びすれ違いざまに射撃した際、急な方向転換で大きな負荷がかかっていた機体が空中分解を起こし、そのまま山中に墜落した。
垂直背面攻撃は、機体を引き起こす時にパイロットの意識が飛ぶほどの重力加速度がかかる。機体に「しわ」が発生したり、粕谷さんの機のように空中分解したりすることもあった。敵機との衝突や反撃を回避できてもなお、死線を超えるには至らない過酷な技だった。
粕谷さんの機体は大分県竹田市の山中に落ちた。粕谷さん自身は落下傘が開いたものの、空中分解の衝撃によって頭の骨が折れるなどし、午前8時20分ごろに絶命したとみられる。近くの住民が救護に駆け付けた時には、まだ体が温かかったという。
被弾したB29はコントロールを失い、乗組員たちは機体を放棄してパラシュートで脱出。地上で住民らに捕らえられたり、交戦中に死亡したりした。機長として東京へ送致されたワトキンズ氏以外の捕虜は、後に九州帝国大(現在の九州大)に移され、片肺切除などの生体解剖手術を受けて死亡した。
B29の元機長ワトキンズ氏の証言には「すれ違った」
粕谷さんの最期は地元では長く、B29に「体当たりした」と伝えられてきた。粕谷さんとB29搭乗員の名を刻んだ現地の鎮魂碑「殉空之碑」にも、そう刻まれている。
当時、小学生だった地元の男性(85)は西日本新聞の取材に「紫電改は落下しながらB29とすれ違い、U字カーブを描いて上昇しながら敵機にぶつかった」と話しており、こうした住民の証言から「体当たり」説が広まったとみられる。
太平洋戦争当時、敵機に機銃を撃ち込むのは非常に難しかった。コクピットの照準器を敵機に合わせて撃つだけでは命中せず、歴戦のパイロットは100メートル以内まで距離を詰めて撃ったという。それだけ接近して射撃をしていれば、粕谷さんの紫電改が実際には空中分解をしていても、地上からは「体当たり」に見えても不思議ではない。粕谷さんの最期を記した旧日本海軍の文書には「空中分解」とあり、B29の元機長ワトキンズ氏の証言には「すれ違った」と記録されている。優秀なパイロットをそろえ、最新の戦闘機を配備した343航空隊では、体当たり戦法を採用してもいなかった。
最期が体当たりではなく、空中分解だったとしても、19歳の若者の戦いが色あせる訳ではない。ただ、勇敢さや美談がもてはやされ、時代の空気に流される中で、埋もれてしまう「真相」がある。そんな危うさを今の時代に伝えている。
紫電改の落下地点は明確に伝えられてこなかったが、当時の目撃証言を基に、戦争捕虜の調査研究をしている民間団体「POW研究会」(東京)のメンバーや住民らが2018年春から現地を捜索。機体の旋回性能を上げる両翼の「空戦フラップ」の一部で、旧日本海軍のいかりの文様が入った部品や、フロントガラスと思われる親指大のガラス片の塊など約60点が発見された。その一部は現地にある粕谷さんの「鎮魂碑」の前に展示されている。
「史実残す」胸に紫電改検証
大分で残骸展示、兵庫で原寸模型
戦後74年「遠い過去にさせない」
西日本新聞 - 2019/8/7 11:32 (2019/8/7 15:12 更新)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/533403/
戦後74年を前に、旧日本軍の戦闘機「紫電改」を検証し、パイロットを慰霊する動きが各地で起きている。大分県竹田市では5月に部品とみられる残骸の展示ケースが設置され、兵庫県加西市では6月から原寸大模型の公開が始まった。太平洋戦争末期に登場した新鋭機。敗戦の気配が漂う中にあってもパイロットとして戦ったり、製造に従事したりした若者がいた。検証に関わった人々に共通するのは、多くの若者が犠牲になった戦争を遠い過去にさせないとの責任感だ。
「今を生きる私たちが、未来に向けて何をすべきか考える場所になる」
5月5日、山間地に田畑が点在する竹田市久保。74年前にこの地で亡くなった紫電改のパイロット粕谷欣三さん(当時19歳)の慰霊祭で、首藤勝次市長は参列者約50人にあいさつした。
粕谷さんは1945年5月5日、米軍の爆撃機B29と交戦し、この地に落下して死去。B29の搭乗員はパラシュートで脱出後に捕虜となり、後に九州帝国大(現九州大)で生体解剖を受けて命を落とした。
慰霊祭では、粕谷さんが搭乗していた紫電改の一部とみられる部品の展示ケース、碑文の除幕式もあった。縦30センチ、横60センチ、高さ30センチのケースにエンジン部分に使われたとみられる歯車など6点が並んだ。
式典の準備や展示ケースの設置に奔走したのは、近くに住む小林正憲さん(70)。小林さんの母が粕谷さんの最期を見届けた。慰霊の気持ちの高まりとともに戦争捕虜の調査研究をしているPOW研究会(東京)のメンバーに打診し、山中に落下した紫電改の残骸を見つけようと、何度も挑戦してきた。
昨春からの調査で、金属片やガラス片など約60点を発見。「戦争をすれば、破壊さればらばらになってしまう。部品だけでも何とか残したかった」。小林さんが市教育委員会に働き掛け、大分県立歴史博物館による破片の保存処理も実現。展示施設は、訪れた人がいつでも見られるように屋外に設置した。
展示ケースの台座には「語る紫電改」という文言を刻んだ。時がたち当時の記憶や記録が風化していく中、粕谷さんという青年が戦ったことを後世に伝えたいと小林さんは願う。
「ここに紫電改にまつわる物があれば、粕谷さんがこの場所で戦い、命を落としたことが分かる。語り掛けてくる何かを感じ取ってくれれば」
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深い緑色で塗装された戦闘機。近くで見ると、その迫力が伝わってくる。
兵庫県加西市にある鶉野(うずらの)飛行場跡。備蓄倉庫内には紫電改の原寸大模型がある。「戦争で戦った人たちの存在を忘れてはならない」。「鶉野平和祈念の碑苑保存会」理事で、同県高砂市の上谷昭夫さん(80)はそんな思いを機体に込めた。
以前、飛行場跡近くの会社に勤務していた上谷さん。1990年代前半、戦友の手掛かりを求めて訪れる人の存在が戦史調査のきっかけとなった。この飛行場は43年、パイロットを養成する「姫路海軍航空隊」の開設を機に整備された。翌44年に川西航空機鶉野工場が併設され、紫電改も製造された。テスト飛行は飛行場の滑走路で行われた。
長さ1200メートル、幅60メートルのコンクリート製滑走路は現存し、加西市が所有している。20年以上、調査してきた上谷さんらの要請などを受け、市は1500万円で模型を製造した。
国内に唯一現存する紫電改は愛媛県愛南町に展示されている。この実物や、上谷さんが防衛省から入手したエンジンや機体の図面を参考に造り上げた。74年前、製造に携わった加西市の小谷裕彦さん(92)は、当時使っていた工具箱と機体が同じ色だったと助言し、色合いに反映された。
市は2022年に、紫電改の関連資料などを展示する施設を造る予定。その計画をにらみ、上谷さんらは関連資料の収集、保存も続けてきた。上谷さんは調査の中でさまざまな意見を聞くが、戦争を遠くにしか感じない世代が増えていることに危機を感じるという。
上谷さんはこう語った。「まだ間に合う時に、史実を残しておきたい」
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【ワードBOX】紫電改
旧日本海軍の局地戦闘機。太平洋戦争の戦況悪化に伴い、米軍の戦闘機や爆撃機が日本の空に襲来する中、本土防衛の任務に充てられた。有名な零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を上回る高速性を持ちながら、製造工場への空襲や資材不足などで生産数は約400機にとどまった。長崎県大村市などを拠点にした「343航空隊」に、紫電改を配備。終戦の5カ月前の1945年3月、松山市の上空で敵機57機を撃墜し、味方の損失は13機だったという記録が残っている。
紫電改の撃墜映像を公開
大分・宇佐市の市民団体
築上町での「悲劇」裏付け
西日本新聞 - 2019/5/5 6:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/507725/
太平洋戦争時に米軍が撮影した映像解析に取り組む大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」は4日、旧日本海軍の戦闘機「紫電改」が、福岡県築上町上空で撃墜されたとみられるカラー映像を公開した。地元は「紫電改のプロペラ」の一部を大切に保存し、搭乗員の慰霊祭も毎年開催するが、知る人は少なくなっている。今回の映像は、地域がつないできた「戦時下の悲劇」を史実的に裏付けたともいえ、住民は「感慨深い」と話している。
紫電改は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に代わる戦闘機として戦争末期に開発された。映像は14秒。1945年8月8日午前10時15分ごろ、同町上空で米陸軍戦闘機P51の搭載カメラが捉えていた。
塾によると、当日は八幡市(現北九州市)を中心に九州各地を攻撃する米軍機数百機を迎撃するため長崎県大村市の海軍基地所属だった紫電改24機も出撃。そのうちの1機が築上町上空で4機のP51と空中戦に。米軍の任務報告書にも「(紫電改は)墜落した」との記載があるという。
同町小原地区の中西義季さん(79)は「裏山で腰を抜かすほど大きな音がした」と墜落当時の記憶を語る。集落の男性がプロペラ(約160センチ、約50キロ)を持ち帰り、10年ほど前から小原公民館で保存。同地区は毎年3月に搭乗員の慰霊祭を続ける。中川文敏自治会長(68)は「昭和は遠くなったが、語り継ぐ責任を感じる。今後も慰霊祭を続けたい」と話す。
塾は2011年から米国立公文書館が保存する映像を収集。日本への空襲や日本軍との空中戦に関する計36時間分を購入して日時や場所を特定する作業を続け、17年にも紫電改の空中戦映像を解析、公開している。
=2019/05/05付 西日本新聞朝刊=
「紫電改」の悲劇語る残骸
B29と交戦、墜落の旧日本軍機
ガラス片など50点発見
西日本新聞 - 2018/11/30 6:00
(2019/1/15 17:48 更新)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/469484/
太平洋戦争末期、大分県上空で米軍B29爆撃機と交戦し「体当たり」をして墜落したとされた旧日本軍の戦闘機「紫電改」。同県竹田市の山中で、その残骸とみられる破片が大量に見つかった。今春以降、地元住民らが戦後初めてとなる捜索を実施。フロントガラスと思われる破片の塊など約50点が確認された。亡くなったパイロットの粕谷欣三さんは19歳だった。B29も墜落し、後に九州帝国大(現九州大)で生体解剖され命を落とした米兵も搭乗していた。関係者は戦争の記憶を伝える遺産として保存していく考えだ。
紫電改は太平洋戦争末期、本土防衛を任務として登場した戦闘機。空中戦の主力だった零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を上回る高速性を持ちながら、空襲や資材不足などで約400機の生産にとどまった。戦後、海中から引き揚げられた機体が1機残っており、愛媛県愛南町の「紫電改展示館」に展示されている。
空中戦があったのは1945年5月5日。熊本、大分県境付近でB29と交戦した紫電改が山中に墜落。粕谷さんは息絶えた。B29の搭乗員はパラシュートで脱出した。そのうち、捕虜となった8人は九州帝国大で片肺切除などの実験手術を受けて死亡している。
紫電改の残骸調査を提唱したのは地元在住で、母親が粕谷さんの遺体の元に駆け付けた小林正憲さん(69)。戦争捕虜の調査研究をしているPOW研究会(東京)が現地でB29の残骸を捜していると聞き、今年4月から紫電改の調査を合同で行うことにした。落下地点を伝え聞く住民の証言に基づき、7月まで6回、川沿いなどを掘り起こした。
見つかったのは、親指大のガラス片の塊や、機体の旋回性能を上げる両翼の「空戦フラップ」の一部で、海軍のいかりの文様が入った関連部品、機体に装着されたベルトの留め具とみられる金属片などもあった。
紫電改の墜落や粕谷さんが亡くなった史実は、捕虜の生体解剖というショッキングな出来事に埋もれがちだった。今回発見された残骸を保存し、後世に伝えることで、小林さんは「(若くして戦争の犠牲となった)粕谷さんに思いをはせてほしい」と願う。これからも地元にある粕谷さんの鎮魂碑の手入れは続けていく。
■原因は「体当たり」ではなく「空中分解」海軍資料
大分県竹田市の山中から見つかった旧日本海軍の戦闘機、紫電改の残骸とみられる破片。西日本新聞がPOW研究会の協力を得て入手した海軍の資料によると、機体の最後は「空中分解」だった。地元では長く、紫電改は米軍のB29爆撃機に「体当たり」したと伝えられており、実態を聞いた関係者も「水を差す」として他言していなかった。
この紫電改のパイロットだった粕谷欣三さんの鎮魂碑は1980年に竹田市に建てられた。碑文には、その最期が「(B29への)果敢な体当たり」だったと刻まれている。B29の乗組員とともに慰霊される「殉空の碑」(77年建立)にも同様に記され、西日本新聞もこれまで「体当たり」だったと報じてきた。
当時、小学生だった地元の男性(84)は本紙の取材に「紫電改は落下しながらB29とすれ違い、U字カーブを描いて上昇しながらB29にぶつかった」と話しており、こうした住民の証言から「体当たり」説が広まったとみられる。
ただ、粕谷さんが所属した部隊「第三四三海軍航空隊」の殉職者や戦死者などの最期を記した海軍の文書によると、機体は「空中分解」したと明記されている。
粕谷さんの乗る紫電改は、1945年5月5日午前7時26分に長崎県の大村航空基地を出発。同8時5分、10機のB29を大分、久留米間上空に発見すると、直ちに攻撃を始め、大分県に突入した。後尾を飛ぶB29に後方の下側から攻撃し、B29が火を吹いた瞬間に空中分解したという。
地上から「体当たり」に映ったのは、確実に射撃するために接触しかねないほどB29に接近したためとみられる。だが、この攻撃の前に、空中分解に至るような大きな負担が紫電改にはかかっていた。
粕谷さんと一緒に編隊を組んだ隊員の手記に加え、別の隊員やB29の機長の証言によると、B29に近づくと「ハリネズミのように八方から弾が飛んできた」といい、接近するための対策として考案したのが「垂直背面攻撃」だった。
あの日もこの攻撃を敢行していた。紫電改は、B29よりも上空で上下反転して垂直に落ちるように突撃。B29との擦れ違いざまに射撃し、エンジンを出火させた。そして紫電改を引き起こした際、機体に大きな負荷がかかった。飛行速度が遅くなったB29を追い、すれすれを通過しながら射撃した瞬間、紫電改は空中分解したとみられる。
海軍飛行予科練習生に入り、終戦前はロケット戦闘機「秋水」に乗る瀬戸際だったという三宅清隆(93)さん=熊本県和水町=は戦後、交流が生まれた三四三航空隊の元隊員から「空中分解」と聞いていた。
粕谷さんの鎮魂碑をたびたび訪れてもいるが、他言はしなかった。「せっかく体当たりって祭っている。水を差すことは言わん方がよかろうと考えた」。敵機への体当たりを美談とする風潮に加え、機体の整備部門への影響も考慮し、口をつぐんできたという。
=2018/11/30付 西日本新聞朝刊=
紫電改の空中戦映像か
宇佐の市民団体公表 45年、米軍撮影
西日本新聞 - 2017/5/1 17:55
(2019/6/24 14:11 更新)
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/327563/
米軍戦闘機が撮影した「紫電改」とみられる機体
(豊の国宇佐市塾提供)
太平洋戦争時に米軍が撮影した映像の解析に取り組む大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」は30日、旧日本海軍の戦闘機「紫電改」の空中戦を捉えたとみられるカラー動画など11点を公表した。米国立公文書館から入手したもので、塾の織田祐輔さん(30)は「紫電改の空中戦映像が世に出るのは戦後初ではないか。貴重な史料だ」と話す。
紫電改は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に代わる主力戦闘機として戦争末期に開発された。映像は30秒。1945年5月4日午前8時ごろ、鹿児島県喜界島の上空で交戦した米軍戦闘機の搭載カメラが捉えていた。当時、長崎県大村市の海軍基地所属だった36機が沖縄戦支援に向かっていたという。
塾は2011年から米国立公文書館に保存されている映像の収集を開始。日本への空襲などに関する計26時間分について、日時や場所を特定しながら順次公開している。今回の映像は、宇佐市で13日にある「第13回宇佐航空隊平和ウォーク」で一般公開される。