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観劇レビュー&旅行記
【観劇レビュー&旅行記】を中心にFC2上で、私も思いを気の向くままに書いてゆきます。 政治・時事評論は 【JUNSKY blog 2018】に引続き運用します。リンクの一番上に記載しています。


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Author:junsky07 私の旅行記や、オペラ・バレエ・ミュージカル・演劇等の観劇の感想などを気の向くままに書いてゆきます。



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劇団四季の創設者で元代表の浅利慶太さん御逝去
2018年7月18日((水)

私は、今日の夜、午後7時のNHKニュースで知った訳ですが、
数日前の7月13日に御病気で亡くなられたとのことでした。

NHKーニュースによると悪性リンパ腫で、享年85歳だったとのこと。


浅利慶太さん死去 劇団四季創設
NHKーニュース ー 2018年7月18日 18時29分
‪https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180718/k10011538111000.html‬

劇団四季を創設し、「キャッツ」や「ライオンキング」など海外ミュージカルのロングラン公演を日本に定着させた、演出家の浅利慶太さんが今月13日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。85歳でした。
浅利さんは東京の出身で、慶応大学在学中の昭和28年、俳優の故・日下武史さんらと劇団四季を創設し、数々の舞台を演出しました。

「キャッツ」や「ライオンキング」など海外のミュージカル作品の日本語版を次々と制作し、俳優を1つの役に固定させず、いろいろな役を演じさせる配役システムによって、ロングラン公演を成功させました。

また、はっきりと聞き取れるせりふを話すための発声法など、俳優の育成でも独自の方法を編み出し、劇団四季を全国に専用劇場を持つ日本最大規模の劇団に成長させました。

「ジーザス・クライスト=スーパースター」の演出で、昭和51年度の芸術選奨文部大臣賞を受賞し、平成5年にはミュージカルの文化を日本に定着させたとして菊池寛賞に選ばれています。

アジア各国との交流に力を入れ、中国や韓国の俳優を積極的に受け入れてきたほか、平成18年には「ライオンキング」のソウルでの公演を実現させました。

また、平成10年に開催された長野オリンピックの開会式と閉会式をプロデュースするなど、幅広い分野で活躍してきました。

平成26年には劇団の代表職を退きましたが、その後も舞台の演出を続けてきました。

劇団四季によりますと、浅利さんは去年9月から体調を崩して入退院を繰り返し、今月13日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。

後日、お別れの会を開く予定だということです。


「常に精神的支柱」 劇団四季社長

浅利慶太さんが亡くなったことに受けて、劇団四季の吉田智誉樹社長は「いまは、大きな悲しみと喪失感で、言葉もありません。演劇界に真の意味でのプロフェッショナリズムを確立し、数多くの俳優、スタッフを発掘、育成した成果は、日本の劇場文化を大きく発展させました。現在の日本演劇界の隆盛は、浅利先生のお仕事なくしてはありえなかった。劇団四季のメンバー全員にとっても、常に精神的支柱であり続けました。心から感謝と哀悼の意を表したいと思います」とコメントしています。


吉井澄雄さん「ぼう然とするのみ」

劇団四季は「演劇界に革命を起こす」という志のもと、フランス革命の日に合わせて昭和28年の7月14日に創設され、浅利さんが亡くなったのは、7月13日と65周年となる節目の日の前日のことでした。

このことについて、劇団創立メンバーのひとり、吉井澄雄さんは「浅利慶太は劇団四季創立65周年の前日に彼岸へ旅立った。65年を超える無二の盟友を失いぼう然とするのみである。彼が私に「演劇の扉」を開いてくれなかったらきょうの私は存在しない。心からの感謝と共に冥福を祈る」とコメントしています。

(以下略)



【関連記事】

劇団四季元代表の浅利慶太死去 キャッツなど演出
日刊スポーツ [2018年7月18日16時49分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000526.html


市村正親「偉大な演技のお父さん」浅利慶太さん悼む
日刊スポーツ [2018年7月18日21時57分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000898.html


鹿賀丈史涙、芸名は浅利氏から「非常に魅力的な方」
日刊スポーツ [2018年7月18日21時34分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000857.html




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劇団四季元代表の浅利慶太死去 キャッツなど演出
日刊スポーツ [2018年7月18日16時49分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000526.html

 劇団四季の元代表で「キャッツ」や「ライオンキング」などのミュージカル上演を手掛けた演出家浅利慶太(あさり・けいた)氏が13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。85歳だった。

 通夜・葬儀は近親者のみで行った。9月にお別れの会を行う予定。今年4月の「ミュージカル李香蘭」が最後の演出作品になった。



市村正親「偉大な演技のお父さん」浅利慶太さん悼む
日刊スポーツ [2018年7月18日21時57分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000898.html

 浅利慶太さんの訃報を受けて18日、劇団四季出身の俳優市村正親(69)が都内の所属事務所で会見を行った。

 市村はミュージカル「モーツァルト!」大阪公演千秋楽を終えて、急いで帰京した。訃報は公演終了後に聞いたという。翌朝には次の舞台のためニューヨークへたつという、多忙を縫う絶妙なタイミングで入った訃報に、「『ニューヨークでしっかりやってこい』と言われているよう」と話した。

 最後に会ったのは2年前だった。自身の舞台の稽古場が、四季の稽古場と近かったため、時折様子をのぞきに行っていた。「すごい元気そうで、15分くらい話しました。『お前の芝居が見たいな』と。おととし会えていろんな話ができたのは、忘れがたいです」。

 劇団四季には約16年在籍した。浅利さんからもらった数々の言葉は、今でも覚えているという。「役者は女優の斜め後ろに立て」「役を必死に生きれば、役の仮面が透けて役者の顔が見えてくる」「演技は『ハスの上の水たまり』。常にキラキラしていて、同じ形は二度としない」「他人の時計をのぞくな」-。とりわけ、常に劇団で主演を張っていた鹿賀丈史(67)と脇が多かった市村の関係性を例えた言葉「ステーキの横のクレソン」は、自身のエッセーのタイトルにするほど印象深く残っている。「クレソンはステーキになくちゃいけないものなんだ、と。すしにわさびが必要なように、太陽があって月があるように。太陽じゃなくても月の演技をできればいいんだと思った」。真剣なまなざしで話した後、「最近は俺も、にんにくステーキくらいになったかな」と、市村らしくジョークもまじえた。

 浅利さんは市村にとって「偉大な演技のお父さん」だという。「0から教育してもらった。浅利さんの演技論がしっかりと入っているし、言ったことは全部覚えている。今度は僕が後輩たちにつなげていきます」と誓った。



鹿賀丈史涙、芸名は浅利氏から「非常に魅力的な方」
日刊スポーツ [2018年7月18日21時34分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807180000857.html

 浅利慶太さんの訃報を受けて18日、劇団四季出身の俳優鹿賀丈史(67)が都内の所属事務所で会見を行った。

 鹿賀は72年に劇団四季入りし、翌73年に「イエス・キリスト=スーパースター」で主役として舞台デビュー。以後、退団までの約8年、劇団四季のトップスターとして活躍してきた。

 そんな鹿賀にとって浅利さんは、名付けの親であり育ての親だった。鹿賀という芸名は、金沢出身と聞いた浅利さんが付けたものだった。そのまま“加賀”ではなく、「鹿のように俊敏で澄んだ目をしていろ」との意味を込めて、“鹿”の文字を授けられた。「浅利先生がいなかったら僕はいない」と師に感謝し、「その言葉は忘れられないし、今もその気持ちは大事にしていきたいと思っています」と話した。

 劇団四季の稽古場には、常に怒号が響いていた。「バカヤロー、とかはしょっちゅう言われました。蹴飛ばしたりもされましたよ」。それでも、その裏にはしっかりと情があった。「厳しかったけれど、その奥に優しさやユーモアがあって、非常に魅力的な方だった。だからみんなついて行った。今芝居をしていても、『先生はこう言っていたな』と思い出します」という。

 訃報はこの日知った。最後に会ったのは00年、銀座の食事先でばったり遭遇した。当時「マクベス」の公演を控えていた鹿賀に、浅利さんは「できるのか?」と厳しい口調でハッパをかけてきた。数日後、届いた手紙には、「酒を飲んでいて、きついことを言ってごめん」と、謝罪の言葉がつづられていたという。「1から育てていただいて、気にかけていただいて。劇団を辞めてずいぶんたつのに見てくださっていたんだな、と、感謝の気持ちでいっぱいです」。気丈に話していた鹿賀の目から、堪えきれなくなった涙がこぼれた。

 浅利さんの功績を、「日本の演劇界を大きく変えた。ミュージカルを目指す人間を増やした。どこにいっても四季出身がいる」とたたえた。役者のみならず、優秀なスタッフを育てたのも浅利さんだった。「『長い間ご苦労さまでした』というのと、ここまでの人間たちを輩出したすばらしい力に『ありがとうございます』。四季で始まった役者人生ですから、先生の生きざまを見習って生きていきたい」。天国から見守る恩師に、これからも勇姿を見せつけていくと誓った。





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テーマ:ミュージカル - ジャンル:学問・文化・芸術

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