2018年6月28日(木)
荒木栄が作曲した『この勝利響け轟け!』の一節を 見出しにした西日本新聞の編集室コラム【風向計】に 自然と目が吸い込まれて行った!
私も若い頃から良く歌っていたデモ行進曲だ。
西日本新聞に取り上げられているのは、画期的! 上別府編集委員にエールを送ります!
今や『筑紫野の緑の道を』と書いても知る人々も少ない?!
こう続く 『筑紫野の緑の道を 進み行く10万の戦列』
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「筑紫野の緑の道を」 編集委員 上別府 保慶 西日本新聞【風向計】 ー 2018年6月28日 10時00分 https://www.nishinippon.co.jp/nnp/weather_vane/article/428163
今もそらで歌える! 恐らく私と同世代前後で平和活動や労働運動や政治活動に参加した 人々は歌えると思う。 一方、今の若い人には縁が無い曲だろう。
①『筑紫野の緑の道を 進み行く10万の戦列 赤旗は春風にはためき 歌声は空にこだます。 基地板付の 包囲目指し 進み行く我らの戦列』
(2番には、『風向計』で紹介されている以下の事故が歌われている 《婦人が飛行場付近を通行中、標的吹き流しのロープにひっかけられて片足を切断》)
②『ジェット機に脚奪われた 松葉杖の老婆は叫ぶ (ハミングに重ねて台詞) 「皆さん頑張って きっとカタキを撃ってください!」 (歌に戻り)百万坪の包囲目指し 進み行く我らの戦列』
(中間略:American go home! これを歌うのは福岡だけかも)
③『飛び立てぬ百のジェット機 姿隠す戦争の手先 板付は包囲された アメリカは包囲された! 南 ベトナムへ 南朝鮮へ この勝利響け轟け!』
以下【風向計】から引用
筆者が京都市の学生だった40年ほど前、観光客でにぎわう街を行く反戦デモによく参加した。道筋は御所の北側の通りから河原町通りを下って祇園へ折れ、八坂神社裏手の公園へと向かう。いろんな学校の学生や組合員が合流する祭礼並みの列だった。当時、筆者の大学は学費が安く、遠い九州の出身者も多い。ハンドマイクを握る先導者が福岡ゆかりの反戦歌をやるぞと叫ぶと唱和の声は強まった。
歌は福岡県大牟田市出身で三井三池炭鉱の労働者だった故荒木栄さん作詞作曲の「この勝利ひびけとどろけ」である。今の福岡空港が、まだ米軍の板付基地だった1962年、基地を包囲したデモに参加して作った歌だった。詞に織り込まれた状況はすっかり変わったが、記憶に残る1番と3番を書く。
1番「筑紫野の緑の道を/すすみゆく十万の戦列/赤旗は春風にはためき/うたごえは空にこだます/基地板付の包囲めざし/すすみゆく我等(われら)の戦列」
3番「とびたてぬ百のジェット機/姿かくす戦争の手先/板付は包囲された/アメリカは包囲された/南ベトナムへ南朝鮮へ/この勝利ひびけとどろけ」
これを歌った時、既に板付基地は住民の反基地感情の高まりに押されて72年にその多くが返還され、福岡空港となっていた。だがこの歌は全国各地の人々にも、米軍基地がもたらす矛盾を伝え続けた。
「福岡市史」第8巻をめくると、板付基地の飛行機事故は敗戦で米軍が進駐した直後から立て続けに起きている。
「婦人が飛行場付近を通行中、標的吹き流しのロープにひっかけられて片足を切断」「中学二年生が、飛行中の機体からガソリンを浴びて引火、全身に火傷を負って死亡」「F八六ジェット機が墜落、五戸を焼いて住民一一人が死亡」。この後も61年に香椎の住宅地への墜落事故で4人が命を奪われるなど、事故は114回、米軍関係者を含む死者は20人に上っている。
先ごろ、68年6月2日にファントム戦闘機が九大に墜落した事件から半世紀がたち、当時の体験を語り継ぐ集いがあったが、惜しむらくは板付基地をめぐる住民の恐怖の記憶は風化しつつある。板付基地が返還された際に、米軍の駐留部隊が沖縄の嘉手納基地へ移転していったことも忘れてはなるまい。そして米軍は今も、朝鮮半島の有事をにらみ、民間空港の福岡空港へ発着を続ける現実がある。
福岡空港は国内線ターミナルの改修工事が2020年に完工予定。今こそと「筑紫野の緑の道を」を口ずさむ。
=2018/06/28付 西日本新聞朝刊=
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