2017年11月5日(日)今日は、KBCシネマで上映中の映画【セザンヌと過ごした時間】 (原題:CÉZANNE ET MOI)を見に来ました。 (以下の画像は、KBCシネマのスタッフ作成のディスプレイより) 売れない画家ポール・セザンヌの幼少期からの親友だった 一足早く売れ始めた作家エミール・ゾラの視点で描かれている ストーリーのようです。 なので、原題が『CÉZANNE ET MOI』 (セザンヌと私)。 使用言語は、フランス語でした。 中学生くらいの頃からの同級生(即ち同年代)だった ポール・セザンヌ と エミール・ゾラ の若い頃から 晩年に至るまでを丁寧に追った映画でした。 セザンヌ と ゾラ が同級生であったことや生涯に亘って 交流を続けていたことも含めて、殆ど全てのエピソードを 私は知りませんでした。 セザンヌは裕福な家庭で育ち、 ゾラは貧しい移民の子どもとして育ちますが、 世間に認められるのはゾラの方が早く・・・ 当時の絵画アカデミーの方向とは全く異なる画風であることから 全く作品が評価されず買う人も無く、困窮生活を送るセザンヌを 『居酒屋』などの作品が人気を得て作家として成功を納めている ゾラが金銭面も含めて支援します。 これは、学校で『移民の子』イジメに会っていたゾラを助けて 何かと支援してきたセザンヌに対する感謝の想いからでしょう。 ところが、ゾラが作品『制作』(L' OEUVRE)の中で自分たちと似た人々を 描いたことから、セザンヌは、この作品によって辱められたと勘違いし、 一時(結構長期にわたったらしい)仲たがい。 彼らは、既に中年の域に達していて糖尿病なども患っており・・・ まだ、上映中であり、これ以上書くとネタバレになるので、ここまで。 セザンヌの作品は再晩年に評価され始め、存命中に名声を得たと云う エンドクレジットが一つの救いでした。 セザンヌの絵画は映画の中では殆ど出て来ませんが、エンドクレジットの 背景として、彼が好んで描いた白いがゴツゴツした山肌の山(上の実写の山) の絵が次々に Fade In Fade Out して紹介されます。 その最後の絵は、キャンパスの素地のままの処が多く残っており、 もしかして『絶筆』?ではないかと思わされます。 【セザンヌと過ごした時間】公式サイト VIDEO ****************
【セザンヌと過ごした時間】Movie Walker による作品解説 ポスト印象派の巨匠セザンヌと『ナナ』、『居酒屋』の文豪ゾラの交流を美しい映像の中に綴ったドラマ。 幼い頃から夢を語り合って来た2人は、成長してパリへ出る。作家として成功を収めたゾラに対して、画家に挑戦するセザンヌはなかなか芽が出ず……。 出演は「世界にひとつの金メダル」のギョーム・カネ、「イヴ・サンローラン」のギョーム・ガリエンヌ。監督は「モンテーニュ通りのカフェ」のダニエル・トンプソン。********************** 作品データ 原 題 : CÉZANNE ET MOI 製作年 : 2016年 製作国 : フランス 配 給 : セテラ・インターナショナル 上映時間 : 114分 ********************** 【あらすじ】 後に、ポスト印象派の巨匠として知られることになるセザンヌ(ギョーム・ガリエンヌ)と『ナナ』、『居酒屋』の文豪ゾラ(ギョーム・カネ)。幼い頃、2人はエクス=アン=プロヴァンスで出会い、夢を語り合ってきた。やがてパリに出たゾラは、新聞の評を書きながら小説家として成功を収める。一方、セザンヌも画家を目指してパリで絵を描き始め、サロンに挑むが落選続き。栄光を手にしたゾラと、心を閉ざしていくセザンヌ。ある日、ゾラの別荘で久しぶりに再会した2人は、“ある画家”をモデルにしたゾラの新作を巡って口論となるが……。 【キャスト・スタッフ】 役 名 : 配 役 ポール・セザンヌ : ギョーム・ガリエンヌ エミール・ゾラ : ギョーム・カネ アレクサンドリーヌ : アリス・ポル オルタンス : デボラ・フランソワ ジャンヌ : フレイア・メーバー セザンヌの母 : サビーヌ・アゼマ ゾラの母 : イザベル・カンドリエ 監督・脚本 : ダニエル・トンプソン
【セザンヌと過ごした時間】公式サイトより <ポール・セザンヌ> PAUL CÉZANNE 1839年1月19日、南仏エクス=アン=プロヴァンスの裕福なブルジョワ家庭に生まれる。銀行家であった父の希望もあって大学では法律を学ぶが、画家への夢を実現すべく、1861年、ゾラのいるパリへ。マネやモネ、ピサロなども在学したシャルル・シュイスの画塾で絵画の基礎を学ぶ一方、ドラクロワ、クールベ、そしてヴェロネーゼらの影響を受ける。だが、パリではうまくゆかず、早々に帰郷。それ以降、エクスとパリを行ったり来たりする生活を送る。この時期、マネのほか、若き印象派の画家たち──ピサロ、モネ、ルノワールらとも近しくなり、彼らと行動をともにするようになる。1874年の第1回印象派展をきっかけに印象派絵画が次第に受け入れられ始めるが、セザンヌは次第に彼らとは距離を取るようになり、故郷のエクスに拠点を移した1880年代にはその隔たりは決定的なものとなる。この頃から独自の画風を目指して苦闘を続け、やがて1890年代頃から若い画家たちの関心を集めるように。1895年、画商ヴォラールがパリで開いた個展によってセザンヌの名はようやく一般にも知られるようになった。ゴッホ、ゴーギャンをはじめ、ピカソ、マティス、ブラックら、20世紀絵画の立役者たちの多くがセザンヌを師と仰ぎ、その絵から大きな影響を受けていった。1906年10月23日に生地のエクスにて亡くなる。 **************<エミール・ゾラ> ÉMILE ZOLA 1840年4月2日、パリに生まれる。父親はイタリアから移民としてやって来た技師で、母はフランス人だった。父親の仕事の都合でエクス=アン=プロヴァンスに幼少の頃に引っ越してくるが、早くに父を亡くし、苦労の多い少年時代を過ごす。コレージュ(中学校)ではよくいじめられていたが、セザンヌの友情を得て救われる。この頃より文学に興味を抱き始め、小説家を志すようになる。1858年、パリに戻り、アシェット出版で働くなかでマネの知己を得る。1864年、17歳だったアレクサンドリーヌ(ガブリエル)と出逢い、恋に落ちる。そして1867年、『テレーズ・ラカン』を完成させ、一躍、筆名を上げる一方、マネをはじめ、のちの印象派たちを擁護する記事を定期的に「L'événement」紙などに書くようになる。1869年、全20巻構成による大著「ルーゴン=マッカール叢書」を構想し、その第1巻となる『ルーゴン家の誕生』を1870年に完成、その後、『居酒屋』(76)、『ナナ』(79)、『ジェルミナル』(85)など、第二帝政から第三共和制下のパリの市井の人々を描く壮大な物語として完成させ、自然主義文学の金字塔を築いた。また、1894年のユダヤ人将校ドレフュスをめぐる疑獄事件ではドレフュス側に立ち、『我弾劾す』と題した記事を著し、物議を醸した。1902年9月29日、パリにて亡くなる。
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