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観劇レビュー&旅行記
【観劇レビュー&旅行記】を中心にFC2上で、私も思いを気の向くままに書いてゆきます。 政治・時事評論は 【JUNSKY blog 2018】に引続き運用します。リンクの一番上に記載しています。


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junsky07

Author:junsky07 私の旅行記や、オペラ・バレエ・ミュージカル・演劇等の観劇の感想などを気の向くままに書いてゆきます。



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「人足寄場」
今日の「その時歴史が動いた」は、
天明の飢饉(ききん)江戸を脅(おびや)かす
~鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策~

と題して、
 松平定信の「寛政の改革」期に、小説「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵が行った
日本初の「職業訓練校」と「職業安定所」の制度の設立を取り上げた。

案内役は、おなじみの(松平定信の末裔?)松平定知アナウンサー。

 飢饉から逃れて農村から江戸に流れて来た無宿人(ホームレス)が、食べることにも事欠き犯罪に走っていたので、当初は排除・隔離政策を取ったが、一向に犯罪が減らない。
 松平定信は、幕臣にアイデアを出すように通達をだしたが、提案が無い。

 その時!旗本・長谷川平蔵が、「職業訓練校」のアイデアをもって松平定信の前に進みでた。
 長谷川平蔵は、『火付盗賊改め』として多くの犯罪者を裁いてきた経験から、彼らは社会の犠牲者ではないか?と考えていたのである。 
 今の自民党政治家に聞かせたい。

 今でこそ「人足寄場」(にんそくくよせば)というとあまり良い響きではないが、当時は「無宿人」という響きの方が一層悪い響きだったのであり、「人足寄場」は新しい言葉だったのである。
 長谷川平蔵は「御用人足所」という施設名にすることを提案したが、老中・松平定信はこの意図を汲み、施設の名を「人足寄場」と決定したという。

 「人足寄場」で3か月職業訓練を受けた人足には、就職先の斡旋もされ自立していったという。

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詳しくは、ここをクリック

NHKホームページより
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18世紀後半の江戸後期、未曽有の危機が江戸幕府を襲った。天明の飢饉である。
飢饉は全国で数十の死者を出すだけなく、村を捨て身元不定となった大量の「無宿人」も生んだ。
当時多くの無宿人が食糧を求め、江戸に流れ込んでいた。
無宿人たちは江戸でも食いぶちを見つけられず、食うに困って窃盗などの犯罪に手を染めていく。幕府は治安維持のため無宿人を取り締まるが、犯罪は跡を絶たなかった。

そこに立ち上がったのが、小説「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改・長谷川平蔵である。
取り締まるだけでは無宿人の犯罪はなくならないと考えた平蔵は、彼らを自立して生活できるように変えることで、犯罪の原因を元から絶とうと考える。
そして幕府に願い出て、無宿人を更生し、職業を身につける訓練施設「人足寄場」を設立する。
平蔵は無宿人たちのやる気を引き出し、3か月後には第1号の出所者を出す。
その後も毎年200人が出所し、無宿人の犯罪は減り、江戸の治安は回復していく。
番組では、飢饉が生んだ大量の無宿人の問題に、先進的な社会救済策で対処して江戸の治安を守り抜いた、鬼平こと長谷川平蔵の知られざる功績に迫る。
その時: 寛政2(1790)年5月
無宿人たちの授産・更生施設「人足寄場」から初の出所者が出た



NHKホームページ より 詳細コピペ
 
気が向いたらお読みください。

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無宿人(むしゅくにん)について
江戸時代、人別帳の記載から除外された者の総称です。無宿人になる原因については、失踪、勘当、追放などがありますが、江戸中期以降、特に天明の飢饉を境にして、江戸には村を捨てた困窮農民が無宿人となって大量に押し寄せ、社会不安、治安悪化を引き起こし、社会問題となりました。

天明の打ちこわしについて
天明7年5月の打ちこわしは、江戸・大坂をはじめ全国諸都市で起こりました。天明の飢饉や米問屋の米の買い占めが大きな原因と言われています。最初は米屋が狙われましたが、次第にあらゆる商家が襲われるようになりました(一説には8000軒)。江戸でこれほど大規模な騒動が起こったのは初めてで、町奉行所では取り締まれず、幕府は、軍事力で鎮圧に乗り出し、あわせてお救い米の実施や夜間の往来禁止など対策を打ち出した結果、ようやく鎮静化しました。

御先手組(おさきてぐみ)について
戦の際には先鋒隊を務める江戸幕府の戦闘部隊で、通常は江戸城本丸諸門の警備や将軍他行の際の警護を務めます。弓組と鉄砲組があり、長谷川平蔵はそのうち一組の組頭。「徳川実紀」では天明の打ちこわしの際に幕府から出動を命じられた10組のうち、長谷川平蔵の名が一番最初に記されています。組頭筆頭であることから、「御先手組を率いた」という表現にしました。

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)について
江戸幕府の職名の一つで、火盗改(かとうあらため)ともいいます。御先手組の頭である先手頭(さきてがしら)の一人が任命され、その職につく先手頭の加役(兼務の職)でもある。その職務は、江戸やその近郊における放火や盗賊、ばくちなどの取り締まりです。長谷川平蔵の時代は、犯罪の増加により、火付盗賊改が町奉行と並び、重要な役割を果たしていたと言われます。

御仕置例類集(おしおきれいるいしゅう)について
江戸幕府の刑事事件の判例集。老中が、町奉行や火付盗賊改などからの仕置の伺いに対して、指令する際に用いた幕府評定所の刑事裁判評議を記録、編纂したものです。老中は仕置の伺いに対して判断に迷った際、評定所で評議するように命じました。そのため御仕置例類集にある記録は、実際に行われた裁判の一部ですが、長谷川平蔵の裁判記録はその中の一番古い「古類集」に200件ほど記載されています。なお、長谷川平蔵自身は事件や裁判の記録を一切残していません。

天明の飢饉の被害の数について
天明の飢饉の被害については諸説ありますが、6年間で人口が140万人減少したという表現は、当時の老中・松平定信の自伝「宇下人言」を、飢えや疫病による死者が30万人という表現は、仙台藩の当時の記録を参考に紹介しました。

旧小貫村(栃木県)の記録について
「小貫村潰退転百姓高反別取調書上帳」(栃木県立文書館寄託)より。村人の数の減少については、「小貫村宗門人別改帳」での比較をもとに紹介しました。

当時の江戸の様子を記した記録について
「無宿人が世間に大量にあふれ出てとどまることを知らない。
 長谷川平蔵はこのことを深くなげいていた」
幕府が編纂した「御府内備考」から一部引用して、意訳したものです。

幕府が行った島送りの絵図について
江戸幕府は安永7年、無宿人対策として、無宿人を捕らえて佐渡に送り、鉱山の水替人足として働かせました。多い年で60人の無宿人が佐渡に送られています。番組で紹介した絵図は「佐渡金山金堀之図」(国立公文書館)と「江戸水替到着之図」(国立科学博物館所蔵)です。

定信が行った無宿人の人返しの政策について
「天明撰要類集」にある天明8年の無宿人の出所帰住策によっています。元名古屋大教授・平松義郎氏や元駒沢大教授の南和男氏の研究をもとに紹介しました。

無宿人に対する見方を記した文書について
「無宿人は一掃しても また出てくる」
老中・松平定信の側近が官界やそれを取り巻く状況をまとめた「よしの冊子」から一部引用して、意訳したものです。

平蔵の意見書について
人足寄場の開設の前後1年ほどの間に、長谷川平蔵が幕府にあてた意見書や手紙等をまとめた史料が「寄場起立」(神宮文庫蔵・写本) として残っています。なお、東京市史稿・産業篇38巻に、活字化されたものが記載されています。

「人足(にんそく)寄場(よせば)」の命名について
長谷川平蔵は施設の名前に「無宿」という言葉を使えば、世間が施設を見るイメージが悪くなり、せっかく無宿人たちに職を身につけさせても、彼らの就職に悪影響が出ると考え、「御用人足所」という施設名にすることを提案します。老中・松平定信はこの意図を汲み、施設の名を「人足寄場」と決定しました。

人足寄場の場所について
人足寄場が作られたのは、東京都中央区佃の佃公園付近で、昔は石川島と呼ばれていましたところです。長谷川平蔵は当初、別の場所を推薦しましたが、老中・松平定信によって、石川島に置くことが決められました。現在、人足寄場の面影はわずかに住吉神社と佃公園の間の堀が残るだけです。その堀が北に位置する人足寄場(石川島)と南側の佃島の境界でした。

人足寄場での作業について
番組で紹介した人足寄場での作業は、「寄場起立」のほか、杉田玄白の日記「斎(いさい)目録」の寛政2年の項に記されています。その他、当時の見聞を記した「親子草」や太田南畝の「一話一言」にも記されています。番組で紹介した絵図は、明治時代になってからの人足寄場、つまり石川島監獄署の作業の様子を記した絵図です。人足寄場の絵図が現存せず、また作業の内容も変わっていないことから、作業の説明として紹介しました。

人足たちが着た作業着について
佐久長敬「清陰筆記」の中に、水玉模様の法被であったことや次第に水玉の数を減らしていく様が記されています。

人足寄場に対する周囲の冷たい反応について
「無宿人の施設はとても長くは続かないだろう」
老中・松平定信の側近が官界やそれを取り巻く状況をまとめた「よしの冊子」より一部引用しました。

人足寄場での心の教育について
人足寄場顕彰会編「人足寄場史」等を参考に構成しました。心の教育について、平蔵は人足寄場設立の意見書の中でも、その重要性を述べています。平蔵の意見は、僧侶の話を聞かせるものでしたが、老中・松平定信の意見で心学者の講話になりました。この精神教育の効果は、多くの研究家が認めるところとなっています。

心学教諭録の内容について
「腹立ちを押さえるだけが堪忍ではない。欲のむさぼりどきも堪忍。遊びどきも堪忍。
 常に堪忍を心がければ自分に幸せが訪れる。それが堪忍の徳である」
「心学教諭録」(矯正協会蔵)から一部引用、意訳しました。

長谷川平蔵を表した老中・松平定信の言葉について
「この人足寄場によって無宿人たちは自然と減り、犯罪も少なくなった。
 すべて長谷川平蔵の功績である」
松平定信の自伝である「宇下人言」より一部を引用して、意訳しました。

長平蔵の戒名について
「海雲院殿光遠日耀居士(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)」。長谷川家の菩提寺であり、平蔵が葬られた戒行寺の星弘道住職によれば、戒名に、海と雲しか見えない世界(=海の中に作られた人足寄場)にお導きの光が降り注ぐ、つまり人足たちの更生と社会復帰を願う長谷川平蔵の気持ちが込められているといいます。現在、長谷川平蔵の墓は伝わっていませんが、平成6年、戒行寺の境内に「供養碑」が建てられています。
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